こんにちは、試遊会大敗ぶりのsword_renです。
ここ2週間ソシャゲのデイリーすらサボってずっとACⅥやってました。すまんな、もう雷αは引けない。今からセレーナに黒パスが無くて攻撃役の更新が出来ない事、伝えます。いや引くけど。
いやソシャゲなんてどうでもええねん。8/25から仕事中でもトイレに籠ってる時もACⅥの事しか考えられないし、通退勤中聴くのはエアちゃんのContact with youと(ネタバレ防止)と(ネタバレ防止)だけなのよ。
去年AC始めた身分でこの狂い方なので、10年待った人間は多分グリッドのドーザーみたいになっているに違いない。
そんなこんなでひたすらにのめり込んで、一週間で実績コンプまで飛んでいっちゃった。
fAもVDも面倒くさがってミッションのSランクコンプできていないので、はっきり言って異常事態である。
自分が初めてACに触れたのは去年の夏、衝動でps3とACVDを調達して、Dualshock3の小ささに苦しみながらもメカをガチャガチャと動かし、ハイブーストで滑りながら敵をスクラップにすると意気込み、ライフルが全て跳弾した時の絶望と感動は今でも鮮明に覚えている。半分はトラウマ。そしてその後に触れた4&fA。アリーヤのフォルムに惹かれて茨の道を選び、ガスタービンの方がマシな燃費で潜水艦を追い回して絶叫し、ガレージで机を叩いて自由に空を飛べるようになったあのカタルシスは忘れられない。
ACⅥでグリッド135に突入した時、これらのような初体験の感動を味わう事は無かった。
感動ではなく、郷愁があった。
〇ボタンで地を滑り、ジャンプの後にそのまま上昇し、クイックブーストを吹かしながら、ライフルで憐れな企業のMTどもを蹴散らしていく。
VDのチュートリアルで地面から上がる火花を見た時の感動、ラインアークをネクストで蹂躙する無慈悲な爽快感。全てが懐かしく、そして新しく眼前で動いているのだ。去年だけど。
汚染都市に降りて雑魚を蹴散らしていると、MT乗りの企業がどうこうという会話が聞こえてきたのはかなり驚いた。今まで戦闘中にオペレーターや戦闘中の相手との台詞の掛け合いこそあったものの、この”盗み聞き”のような何気ない会話を聞くことは無かったためである。この時点で、既に今作の世界観とその語り方に期待を寄せずにはいられなかった。
そして例の”ルビコプター”。ACⅥにおいての最初のボス戦だが、ここで明確な感動を感じた。
自分が経験したACの序盤のボスと言えば、全身砲台のメガストラクチャを体現するマザーウィルや、訳のわからない形状、訳のわからない攻撃で訳のわからぬままにこちらをいたぶる”ヘンなの”だった。これらは如何にこの鉄塊を解体するか、という感覚で楽しくはあったが、今回は違う。
敵のキャノンを空で避け、決死の覚悟で鉛弾の雨に突っ込み、ブレードを叩き込んでミサイルの雨を降らせる。これはまさしく死闘である。
この戦闘のノウハウはここ十年のフロムがアクションゲームを作る中で培ったものを活かしたものであろう。が、同時にこれは決してメックソウルなどではない。確かにアーマード・コアなのだ。アーマード・コアでありながら、AC乗りとしての死闘感を演出している。これを進化と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
あの銃撃戦の中で爆炎に包まれ、何が起こっているのかわからず死ぬのがアーマード・コアだ、という主張もあるだろうし、自分もその面倒くさい主張に賛同していた面はあった。だがなんということか、自らの機体で明確に榴弾を躱し、硝煙を放つ武装を叩き込む感覚を一度味わったのなら、もうこんな加齢臭のする主張には戻れないだろう。
開幕のチュートリアルミッションででこんなにも興奮していたが、本番はここからである。アーマード・コアの真骨頂たる”アセンブル”が解禁されるのだ。
可哀想な大豊の訓練生を少~しばかり叩いて得たなけなしの金で、NACHTREIHERの腕以外とKUSUARの逆脚を調達し、ウェザリングを綺麗さっぱりふき取り、白と紺色で染めていく。fAでの自分の愛機であったパッチローズが、現代の形で蘇る様は、まるでタイムカプセルを掘り起こすような郷愁と感嘆があった。(fAでパッチローズを組み上げたのが今年というのは内緒)
以下は以前のfA解説記事のssにもちょくちょく登場した愛機パッチローズの新旧。序盤の時のssじゃないのはゆるして。
今作は脚部による動きの変化がアクションに明確に反映されるため、この機体も逆脚である理由が明確になった。以前は「カッコいいから」だけで選んでいたが、今作は違うのだ。
そしてアセンの差が大きいということは、アーマード・コアの特徴たる「相手に対して自機を最適化していく」という相性問題が如実に出るということとも考えられた。
事実として、最初の鬼門たるバルテウスは、アセンを最適化して挑んでいたAC初挑戦の相方に先を越された。
だが調整の妙と言うべきか、今まで通り「多少苦しんでも自分のアセンで突破していく」というプレイが不可能になったわけではない。むしろ逆である。
自機の可能不可能、得手不得手を明確に理解することによって、一度倒したボスならば問題無く突破できてしまうのだ。アセンブルはじゃんけんではなく、自らの拳の型なのだ。これこそが、今作が確かにアーマード・コアでありながら、死闘の感覚を融合させられた最大の要因なのだろう。
次に、シナリオとキャラクターである。アーマード・コアの世界観が殺伐とした空気感を纏っているというのは今作も変わらない。だが、今作はその世界観の中での物語の描かれ方がまるで違うのだ。今までのアーマード・コアといえば、プレイヤーの与えられる情報はミッションの節々の会話やちょっとしたメールといったものであり、プレイヤーは断片的な情報をつなぎ合わせて物語を追いかけていく、所謂”フロム節”全開の代物であった。
勿論これが悪いというわけではないし、自分もこのスタイルは嫌いではない。だが今作のやり方は今までと比べて度肝を抜くような形式であった。
一周目からキャラクター同士の会話が間間に挿入され、敵のMT乗りはぼやきを零し、戦友と難局を乗り越え、イマジナリーヒロインと惑星の謎を追う。
これまでと比べてかなり明確にシナリオが語られているのだ。そしてこれが明確にプレイヤーを燃え上がらせ、謎へと迫る意欲を掻き立てる。
それでいて今までのような考察の余地自体はしっかりと残されている。
もはやこれは過去作のような”カルト的人気を誇る謎のミーム”などではなく、
“このロボゲーの冬の時代にフロム・ソフトウェアが打ち立てたハイ・スタンダード”なのだと確信できる、それほどまでに、熱く、そして今までのように霞がかっている。
このシナリオは、何も語り方が違うというだけではない。
主人公を雇い番号で呼びながらも、まるで父のように世話を焼くハンドラー、
こちらを戦友と呼び、共に難局を乗り越える狼のようなパイロット、
企業の権化のようなカタツムリ男、
鬼教官のような総長、
そして主人公だけに声を届けるイマジナリーヒロイン……
と、一人一人が明確にキャラ付けされ、際立っている。いつものシリーズのようにビジュアルが出ないにも関わらず、まるで目前で出会った人のように思い入れを持たせてくれる、そんな作りなのだ。
もしプレイ済みでありながらこの記事を読んでいる人がいるなら、即座に気に入ったキャラの名前と、そのイメージが思い浮かぶはずである。そしてそれは、意外でありながらも好意的に受け入れられた新たな形であるはずである。
もしまだACⅥをプレイせずにこの記事を読んでいる人がいるのなら、操作や難易度など恐れずに、是非とも一度手に取ってほしい。
そこで何に感動するかはわからない。自分の手足のようにメカを動かす一体感か、自らの愛機を組み上げる創作意欲か、強敵を打ち倒す征圧感と達成感か、魅力的なキャラクターに対する愛か、それとも他の何かかはわからない。
それでもプレイすれば、何か一つ、あるいは一つ以上の感動が、まるで自らに贈られた友人からの文(ふみ)の味わいのように染み込んでいくはずである。
あとがき
本当に楽しかったというか楽しんでるから文章のテンションがおかしいのはゆるして。
次回からチャプターごとと2週目、3週目ごとのミッション攻略でも書いていくので気になったらよんでネ。